穴があったら踊りたい

おさかなさんと彼の平凡で特別な日々です。そんな日々をドキュメンタリー映像にしようと目論んでいます。

自分と誰かの頑張りを素直に喜ぶこと

私は器用かもしれない。

 

 

小さい頃から大体のことは平均以上にできた。

元々完璧主義者的なところがあって、

何をやるにも、どうせやるならいい成果を出したかった。

 

 

小学校の硬筆では賞を取って、

リレーの選手に選ばれて、

習ってもいないキーボードを独学で習得して、

詩を書いたら新聞に載った。

中高でも成績は歴史以外大体A評価だったし、

作った版画が選ばれて学校に展示され、

大人になってからも、

友達の結婚式で歌ってほしいと言われ、

ダンス仲間の中ではいつもいいポジションをもらった。

 

 

 

「すごいね〜!」

 

 

 

小さい頃は無邪気に喜んでいたと思う。

私って才能があるのかも!!そう信じていたと思う。

でも大きくなるにつれて少しずつそれは揺らいだ。

 

 

 

自慢してるって思われたのかも知れない。

私にはそんなつもりなくても、

「私はあなたたちとは違うのよ」みたいな驕りが垣間見えたのかも。

周りの人たちの反応が変わっていった気がした。

「すごいね〜!」と言ってくれる人は減っていった。

 

 

 

なんとなく、頑張ったり、いいものを生み出そうと努力することは

悪いことなのかも知れないと思うようになった。

そして例え頑張ったとしても、それは人に見せびらかしてはいけないのだと。

 

 

 

だんだん「できない自分」をアピールするようになった。

「できない」ということが愛されることにつながっている感じがした。

なるべく「できる」ことは見せないように、

致命傷にならない程度の「できない」を

最大限アピールすることで社会に適応できた気がした。

 

 

でもなんとなく、寂しい。

本当は全力で頑張って評価されたかった。

自分を制限していたせいか、他人の頑張りも素直に喜べなくなって、

どんどん卑屈になっていく自分自身も嫌だった。

 

 

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さらに大人になって、

私は自分をもっと自由に表現したくなった。

窮屈な「できない」アピール用の自分に疲れて、

やりたいことをやりたいようにやりたくなった。

ダンスも歌も仕事も、リミッターを外すようになった。

すると、不思議なことに、

「いいじゃん!!!」と言ってくれる人が周りに現れ始めた。

 

 

 

彼もそのうちの一人だと思う。

私が歌い、私が踊ると、

彼は目をキラキラさせながら、褒めてくれるのだ。

 

 

 

素直に、嬉しかった。

 

 

 

自分が頑張ったことを、

自分が自分らしく存在したことを、

認めてもらえること。

それは全然、当たり前のことじゃない。

すごくすごく恵まれていて

私が渇望していたものだったかもしれない。

 

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「見て見てー!」

「すごいでしょ!!!」

 

 

 

小さい頃の私はきっと無邪気に言っていたと思う。

どうして言えなくなったんだろう。

一昨日の自分の記事と、昨日の彼の記事を読みながら、

それを言うと人に嫌われると信じ込んでいた自分がいることに気づく。

小さな私が、拗ねていたみたい。

 

 

そして、やっぱり自分でわかっているだけじゃなくて

誰かに認めてもらえることで、

自分自身の頑張りをより尊く思えるようになったし、

私自身が誰かの頑張りも素直に認められるようになったような気がするんです。

 

 

伝える相手とか、伝える方法はやっぱり選んだ方が良さそうだけど

もっと素直に自分の、そして誰かの頑張りを喜べる自分でありたいな〜。