穴があったら踊りたい

おさかなさんと彼の平凡で特別な日々です。そんな日々をドキュメンタリー映像にしようと目論んでいます。

常に笑顔のスーパーマンじゃなくても

大事なものを大事にするために、

泣いてばかりじゃなくて、

なるべく隣で笑っていられる人でありたい。

昨日の私はそう言っていた。

 

anaodo.hateblo.jp

 

彼曰く自分より大丈夫じゃなさそうな人をみると

自分は大丈夫な気がしてくるらしく、彼にとっては好都合だったらしい。

でもそれって、無理してるってことなのではないか・・?汗

 

昨日の私の投稿を読んだ彼はこう言った。

 

 

「身体が動かない時は、

 本当にもう自分はなんの役にも立たないんじゃないかって気持ちになる。

 でも隣で自分よりしんどそうにしてるおさかなさんを見て、

 自分にはこの人を慰める役割があるように感じて、心地が良かった。」

 

 

 

どうやら本当に無理をしていたわけではない様子。

当時彼は私がなんで泣いているのかよくわかっていなかったらしいけど、

とにかく泣いてるから慰めなければ!と思ったみたい。

 

 

 

 

となると、

私は泣き虫なままでも、

彼の支えになれるのかも知れない。

 

泣き虫であることは、

必ずしも弱さの現れではないのかも知れない。

 

泣き虫であるということは、

弱さを受け入れられるという強さの一種なのかもしれない。

 

 

 

 

いろんな考えが頭をめぐる。

 

 

 

 

彼がしんどい時、

私が物理的にしてあげられることは

肩に手を添えて近くにいることくらい。

 

 

でも「あなたのことが大事だよ。必要だよ。」

というメッセージを伝え続けることは、

彼の心を満たし、安心する要素として

とても重要な意味を持つということがわかった。

 

 

 

そしてそのメッセージは

必ずしも「私が相手に何かをしてあげること」で伝わるのではなく、

「相手に私が何かをしてもらうこと」でも伝わることがあるんだ。

 

 

 

もちろん、私はそれを伝えるために泣いていたわけじゃない。

彼を安心させるために、弱い自分を演出したわけでもない。

下手すると、結構危険な関係性(共依存的な)になるのかもとも思う。

 

 

 

 

ただ、結果として、

私の「彼を求め、彼に慰めてもらう」という関係性が、

彼の気持ちを軽くすることにつながったのも事実。

 

 

 

 

大事なものを大事にする。

そのためには必ずしも

常に笑顔でへこたれない、

無敵なスーパーマンになる必要はないのかもしれない。

 

 

 

それよりも、

強さも弱さも抱えた1人間として、対等であること。

お互いの弱さを尊重し、助け合うこと。

そういう二人であれたらいいのかなって、

今までとは少し違う視点が生まれたように思ったのでした。

 

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「人」という字は〜〜〜〜(with サメのガブちゃん)