穴があったら踊りたい

おさかなさんと彼の平凡で特別な日々です。そんな日々をドキュメンタリー映像にしようと目論んでいます。

都会の風に問われる

昨日、久しぶりに渋谷に行った。

がっつりダンスをしていた時から

もう6〜7年お世話になっている整体に行くためだ。

身体のバキバキ具合に耐えかねて、久々の予約をとったのである。

電車に乗るのは2ヶ月ぶりくらいだったけれど、

平日の昼間ということもあって、空いていた。安心。

 

コロナ前は頻繁に渋谷にいた。

通っているダンススタジオも、

友達とご飯を食べるのも、

ダンスのリハーサルも、

整体も、買い物も、

渋谷で行われることが多かった。

当時はまだ会社に通勤していて渋谷は定期券内だったので、

アクセスしやすかったのも一因だ。

 

久しぶりに都会のど真ん中みたいな場所にいったら、

なんだか不思議な気持ちになった。

奇抜なファッションをした人や、

こだわりのヘアスタイルを貫いている人がたくさんいる。

自由に自己表現をすることが自然な街。

渋谷はそんなところだと個人的に思っている。

昔はそれが当たり前だと思っていたし、

ダンスをしている友達にはそういう人が多かったので、

むしろ自由な感じが居心地がよかったのだけれど、

今の自分にとっては、

すごく遠い世界のように感じてしまった。

 

 

1〜2年前までは、いい作品を作らなければとか、

SNSを更新しなければとか、

もっとダンスが上手くならなければとか、

そういうものが常に頭の片隅にチラついていた。

それはそれで充実していたし、

誰かに自分の発信したものをいいね!と言ってもらえることは

すごく嬉しかったし、生きがいを感じた。

人として大きく成長できた日々だったと今も思っているけれど、

正直、常に誰かと比較されたり、

他の表現者の作品に触れる中で、

次はもっと良いものを作らなきゃって

自分にプレッシャーをかけていたのも事実だ。

 

それに比べて、今はどうだろう。

舞台上で拍手や賞賛を浴びることはない。

誰かと自分を比較して嫉妬心や悔しさを抱くこともあまりない。

目立つ服を着ることもないし、

あまり仲良くない人と時間を過ごして精神をすり減らすこともない。

お洒落をして出かけることも、

ダンス仲間とクラブで踊ることも、

誰かに注目されることもない。

 

最近の私の生活は、

家と、スーパーと、コンビニと、近所の公園で構成されている。

定期的に関わる人も彼と画面越しの同僚達くらいだ。

 

適度に心地のいい服を身に纏って、

大切な人と一緒にご飯を作って、美味しいねって食べて、

たまに散歩して、自然の変化に注目する。

毎日の小さな悲しみとか喜びで心は十分動く。

私はこの生活で穏やかさの魅力を知ったように思う。

絶好調と絶不調の乱高下の中、

その荒波こそが自分らしい生き方だと思っていたあの頃から見ると、

ずいぶんと穏やかな波の中で今の私は生きている。

いろんなものが半強制的に削ぎ落とされたこの1年。

自分にとって本当に必要で、大事なものは何かを、

見せつけられたような1年間だった。

 

振り返ってみると、前は、

人に見せるための自分の存在が大きかったのかもしれない。

誰かに見られるための自分。

一生懸命に作ったり、見せたりしていた。

そして、「だれかに見られる自分像」が全体の自分像の大半を占めていた

今の自分は、人に見せた時に見栄えがいいものよりも、

自分にとって心地のいいものを選択している気がする。

「だれかに見られる自分像」は確かに私の一部だけれど、

それは自分像のほんの一部にすぎないことが以前に比べて明らかだ

 

でも同時に、これは今の環境がそうさせているだけで、

もしまた都会のど真ん中に入って、

いろんな刺激や表現があふれる中で生きていたら、

また私は必死に「見せる自分」にしがみつくんじゃないかなとも感じた。

だって、昨日、

自分とはあまりに遠い都会の世界に、

どこか寂しさみたいなものを感じたから。

この中で戦っていない自分に、

うっすらと後ろめたさすら感じたから。

 

久しぶりに都会の風に吹かれて、

また改めて問われた気がした。

自分にとっての本当に大事なものは何か?

ただ過去の輝きにしがみついているだけなのかもしれない。

時が経てば大事なものも移ろっていくだろうけど、

変わらずありつづける大事なものは、あるのだろうか?

結局また迷子。

まぁ、でも、わかったつもりになるよりは、ずっといいかな。

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「まいごのまい」を踊るおさかなさん