被害のなかった被災者たち
今日は3月11日でしたね。
私は10年前、新宿のレストランでアルバイトをしていて、
ランチタイムが終わる直前に地震がきたのを覚えています。
窓から見た新宿の高層ビルが
今にも折れそうなほど揺れていたのが衝撃的で、
思い出しても身の毛がよだちます・・・。
私は特に大きな被害は受けませんでした。
地震のあった当日は交通網も通信も麻痺していたので、
あまり人と連絡がとれないまま
バイト先で一晩過ごさなければならなくなったくらいでした。
レストランだったので、食べ物には困らないし、
ソファー席があったので寝るのにも困りませんでした。
次の日には帰宅できて、
幸い家の中も何かが壊れたとかもなく、
ものが落ちていたくらいだったのです。
私は特に大きな被害を受けませんでした。
受けなかった、のに、
次第に呼吸がしづらくなったり、
喉の奥に違和感を感じるようになったり(ヒステリー球というらしい)、
同じ動画を何時間も繰り返しみるようになったりしました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
震災直後、いろんな人が被災地支援のために動き始めた。
役に立つような情報を発信をしたり、
寄付をしたり、ボランティアに行ったり、
身近なところでも動きが始まっていた。
でも私はそのどれもすることができなかった。
やりたくないのではなくて、文字通り、できなかったのだ。
悲しいとか、苦しいとか、怖いとか、そういう感情もなかった。
とにかく無気力だった。
信じられない惨状を横目に、平然と朝を迎える自分。
希望もなく、ただ過ごす日々。
何も被害を受けていない自分には
泣く資格も、不安がる理由もないと信じていた。
被災地には私とは比べ物にならないほど
苦しい思いをしている人たちが沢山いるのに、
何も被害を受けていない私が、
落ち込んでいるのは意味がわからない。
被災地の人たちのために動き始めた人たちをみて、
自分はなんて無力なんだろうと思った。
ただ立ち尽くすだけで動けずにいる自分が、
なんて薄情で酷い人間なのだろうと思った。
でも、違った。
あの頃の私は、悲しくて、不安で、
ずっとずっと大声で泣きたかった。
人の命の儚さ、一変する日常、
積み上げたものが一瞬で奪いさられる様を目の当たりにして、
形あるものの無常さを思い知らされた。
信じていた当たり前があっけなく崩れ去った。
それは私にとって、十分すぎるほどの衝撃だったんだと思う。
私は内側で必死に戦っていた。
自分の許容範囲を超える衝撃の受け止め方がわからずに、
私も何かしなければと焦るばかりで、
置き去りになった私の感情が、
呼吸の苦しさとしてしか表出されなかった。
なぜみんなが動き出せるのかわからなかった。
私だけが動けないのかと思うと情けなかった。
でもきっと仕方がなかった。
人それぞれ受けるダメージの大きさは違うし、
立ち直りのスピードも違うのだから。
私は私なりに、精一杯戦っていたんだと思う。
きっとあの日を経験した私たちは、
例えその真っ只中で被害を受けていなかったとしても、
心に刻まれているんじゃないかと思う。
学校に行くこと、
仕事をすること、
ご飯を食べること、
布団で眠ること、
下らないことで笑うこと、
安心して暮らせる家があること、
大事な人が側にいること、
自分が生きていること、
そのどれもが当たり前ではないという心細さとその尊さを、
同時に刻まれたんじゃないかと思う。
実際に被害を受けた方々の苦しみは計り知れない。
でも、実際に被害のなかった人の中にも、
「被災者」は大勢いるんじゃないかと私は思う。
あの時、自分でも気づかないうちに傷ついていた自分を、
今はもう責めないであげたい。
「当たり前」の尊さを強く刻んだあの時の自分を、
時を経て、優しく抱きしめてあげたいと思えるようになったからね。
