穴があったら踊りたい

おさかなさんと彼の平凡で特別な日々です。そんな日々をドキュメンタリー映像にしようと目論んでいます。

「かわいい」についての考察

私は自分の容姿があまり好きではなく、

どちらかというとコンプレックスがある方です。

思春期の頃には本気で整形した方がいいのではと思ったり、

自分が「不細工」とか、「気持ち悪い」と思われたくないあまり、

例え近所のコンビニでも化粧せずに外に出るのは無理だったし、

ゴミ出しですらテキトーな部屋着で人目に触れるのは耐えられませんでした。

すっぴん&ジャージでコンビニに行ける人は異星人レベル👽

 

正直、今でも一般的に「綺麗」な人や「かわいい」人と出会うと、

比べてしまって恥ずかしくなることがあります。

一般的というのは、現代社会で

「美人」とされる基準を満たしているということです。

例えば目がパッチリしていたり、

鼻筋が通っていたり、

広角が上がっていたり、

小顔だったり。

 

でも私はそういう一般的な基準以外の「美」も

存在していると思っていて、

一般的な基準に当てはまらないからといって

その人が美しくないということではないと思っています。

それは身なりを気にしないということではなく、

自分が好きな服を着て、

自分の好きなメイクをして(もしくはしないで)、

自分の好きなことを生き生きとしていたら、

自ずとその人の最も美しい状態が引き出されるということ。

 

そう思えるようになってからは、

「一般的な基準」に基づく綺麗やかわいいになりたいという気持ちは

だいぶ減ってきていて、

それに伴って、自分の容姿へのコンプレックスも

少しずつ軽減してきたように思います。

でも、それでもなお、

自分の容姿が嫌で嫌で耐えられなくなる時もあるのです。

頭では「一般的な基準」は「一般的な基準」でしかないとわかりつつも、

その基準が根強く内面化されてしまっていて、

無意識にそれに基づいてジャッジしている一面もあるのです。

 

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今朝、なかなか起き上がる気にならず、

しばらくふざけて彼と戯れていたら、

「おさかなさんは、自分がかわいいことに気づき始めたでしょ〜?」

と言われました。

 

私は

「え?私は自分のことかわいいと思ってないけどなぁ」

「むしろ可愛くないことがコンプレックスなんだけどなぁ」

と瞬時に思ったのですが、

彼の言った「かわいい」は、

私の定義する「かわいい」ではないのではないか?と思ったのです。

 

「かわいい」というのには、

「見た目がかわいい(基準は人それぞれ)」というのもありますが、

「愛らしくてかわいがりたくなる」という意味があるのではないか、と。

逆に言えば、そういうものが「かわいく見える」ということなのでは?

と思ったのです。

 

なにをそんな当たり前のことを?と思われた方もいるかも知れませんが、

私は「一般的なかわいいの基準」を強く内面化してしまっているので、

自分はそれに当てはまらないと瞬時に判断しています。

でももし私がとても楽しそうに戯れていて、

彼にとってそんな私がかわいがりたくなる存在に見えたのだとしたら、

私はもはや「かわいい(彼基準)」ということなのでは?

と思ったのです笑

 

そして、さらにいうと、

私は彼が私をかわいがってくれることを感覚的に知っているから、

無防備に戯れることができているんじゃないか?と思い至りました。

これこそが「自分がかわいいことに気づき始めた」

ということなのだと思います。

彼が私のことを一般的なかわいいの基準でジャッジせずに、

そのままの私自身を可愛がってくれていることを

これまでの経験で知っているから、

一般的な基準に合わせようと無理することなく、

自然体で振舞うことができているのだと。

 

ということはですよ?

これは私自身がもともと「かわいい」ということではなくて、

「彼が私をかわいくしている」ということなのでは?と思ったのです。

 

え、何を当たり前のことを?とまたしても思われたかも知れませんが笑、

そこには最初から「かわいい人」が存在するのではなくて、

「かわいい」と思う人がいてはじめて、

人はかわいくなれるのだと思ったら、

すごいことだなぁと思ったのです。

そして自然体な自分をかわいがってくれる誰かがいるということは、

より自然体な自分自身を愛することに近づけるんじゃないかと。

無理して背伸びしている自分を可愛がられるのではなくて、

自分が自分らしくある状態を可愛がってくれる人の存在ね。

 

これは親子関係でも言えることだと思います。

赤ちゃんや子供はできないことも多いし、

失敗をしたり、みっともない部分を

必然的に親に見られることになります。

失敗をする、みっともない自分を見た上でも、

なお見守り、可愛がってくれる人がいて初めて、

自分は愛されるに値する存在なんだという実感が持てる。

逆に言えばみっともない姿を見せたら見捨てられるという経験をすれば、

必死になって良い子を演じ続けなければいけなくなり、

そのままの自分を愛することは難しくなるかも知れないのです。

 

これは親子関係や恋人関係じゃなかったとしても

応用できる気づきなのでは?!

私にも、だれかをかわいくできちゃうかもしれないなんて、

すごいことだなーと!

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「かわいい」スイッチをオン!してるおさかなさん

 私はこれまで、自分のことをあまり愛せていなかったと思います。

一般的な基準に照らし合わせて、

そこから外れるみっともない自分を、

自分で「かわいくない」と裁いてしまっていました。

けど彼はそんなみっともない私でも、

そのまま可愛がってくれていたのだと思います。

その積み重ねで、

私は次第に自分は愛されるに値する存在だという実感を

持てるようになってきたのかもしれない。

彼が私をかわいくしてくれていて、

しかもそのおかげで私は私をより愛しやすくなっている。

うーん。これはすごいことだ。本当に感謝です。

朝の何の変哲もない戯れあいからの大きな気づきでした!