穴があったら踊りたい

おさかなさんと彼の平凡で特別な日々です。そんな日々をドキュメンタリー映像にしようと目論んでいます。

価値について

「価値」ってなんだろうか?

そんな話をしていた。

 

例えば「英語を話せる」というスキルは、

グローバル化の進む現代社会において価値になるかもしれない。

SNSのフォロワーが多い」ということは、

ネットの影響力が強い今の社会において価値になるかもしれない。

 

でも時代が変われば、

時と場合が異なれば、

「価値がある」とされるものも変わる。

同じ物でも、

同じ人間でも、

必要とされる時があれば、そうでない時もある。

必要とされる場所もあれば、そうでない場所もある。

 

彼はパーキンソン病であることで、

一見するとできることが限られているように見える。

 

薬が効いていないと物理的に体勢保持が難しいので、

長時間机の前に座っていることは至難の技だ。

薬が効きすぎると思考が散らかったり多動になるので、

集中して精密な作業を淡々と進めることは難しい。

今、彼はそのどちらも求められる事務の仕事をしているけれど、

彼にとっては紛れもなく辛い時間だ。

 

元々事務は苦手であることを職場には伝えてあったけど、

結局今ある業務が彼の苦手な事務作業しかないらしく、

無理くりやっている状態だ。

苦手なことを毎日無理してやっていると、

できないことばかりを日々思い知らされることになる。

だんだん自分には何もできないんじゃないかとすら

思い始めてしまう。

 

彼は職場から事務作業をすることを求められていて、

事務作業をこなせることが「価値」だとされる場所では、

彼はなかなか価値を見いだしてもらえない。

同時に彼も、自分がそこにいる価値を見出せない。

 

でもそれは決して彼自身に価値がないということではない。

 

そもそも価値は「人」や「物」自体に宿る物ではないと思っている。

「価値のある人」や「価値のあるもの」があるのではなくて、

その人やものに価値を見出す人がいる場所にいるかどうか。

彼は今の職場では価値を見いだしてもらえていないけれど、

私は彼と一緒にいる時間に大きな価値を感じている。

私や、彼の絵をいい!と言ってくれる人たちの中にいたら、

彼は価値を見いだされるのだ。

長時間机に向かって集中していることが価値ではない世界が、

本当はいくらでも広がっている。

 

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彼、おいくら・・?

 

私たちは良くも悪くも周囲の人たちの評価に左右される。

どのくらい影響を受けるかは人それぞれ違うけれど、

少なからず他人から貼られる値札を

眺めたり、内面化したり、剥がそうと争ったりする。

 

彼を見ていると、

本当に人は、環境を少し変えるだけで

こんなに生き生きとしたり、

萎びてしまったりするものなのかと、

思い知らされる。

 

だからこそ私は価値を人やもの自体に宿らせたくない。

 

そして宿らせる権利なんてないんだ。

自分にとってたまたま価値がない人やものを

価値がないからと切り捨てたり排除しようとすることは、

とても傲慢なことだと思う。

 

人もものもそれぞれの姿でただ存在している。

そこに価値が見出されるかどうかは、周囲の環境次第だ。

価値が「ない」んじゃない。

価値を「見出される環境にいない」だけ。 

そう思ったら、もう少し自分にも他人にも寛容になれないものだろうか。